胡蝶の夢のしなやかさ

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(Photo by rawpixel.com on Unsplash)

荘子の胡蝶の夢は有名なので、聞いたことがある人も多いと思います。

夢の中で蝶としてひらひら飛んでいたところ、ふと目が覚めてみると、果たして今の自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも、今の自分は蝶の見ている夢なのかわからなくなる、という説話ですね。

夢と現実の興味深い関係を表しつつ、夢でも現実でもどちらでもよいという境地でもあります。

相手の気持ちになって考えてみよう、相手の立場で考えよう、と言われますが、ここにおいては、もはや蝶です。

あるとき私は蝶であった。
それを超えて、私は蝶の見ている夢です。

自分を定めている境界というのは、実はそれほど曖昧なもので、容易に他のものと同一化することもできるのだろうなと思います。

蝶であっても、
木であっても、
鳥であっても、
私である。

私は蝶でもありえるし、
木でもありえるし、
鳥でもありえる。
さらには、夢と現実の境界線すら溶かして考えてみる。

そういう思想や見方をとってみると、私という境界が容易に変わるので面白いです。

囚われない心を感じる話として、新鮮な発想をもたらしてくれるので興味深いのですね。
西洋的な自己という概念を、ここまで自由に溶かしてくれる発想は、個人的には好きなのですね。

夢か現実か、
嘘か真実か、
正しいか正しくないか、

そういう次元を超えて、ただあるがままで、自由にうつろいゆく中にも、一つの世界があるように思います。

映画のマトリックスが、現実に目覚めるのも好きですが、それよりももっと軽やかで超越的に現実を扱っているのが魅力的なんですね。

私が蝶が見ている夢に過ぎないこともありだと捉えたとき、たいていのことは自己から離れて、超越した感じになるんじゃないかと思いましてね。

<まとめ>
■荘子の胡蝶の夢からは、自己を手放すヒントが得られる。
■夢と現実、私と私ではないもの、その境界線を溶かして考えていってみると、私は蝶
でもありえるし、蝶の見ている夢ということも
ありえる。
■自己責任や自己実現といった、西洋的な自己という考え方を超えて、もっと自然やあ
るがままの生に目を向けるしなやかさもそこに
はあるのではないだろうか。

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