ミッションの奴隷になるな

画像の説明

Photo by MILKOVÍ on Unsplash

ミッションの奴隷になるな

というのが、

最近、哲学書を読んでいて印象的だったことです。

どういうことでしょうか?

多くの人は、

変わりばえのしない日常を生きています。

昨日と同じ今日、今日と同じ明日。

朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。

日々の繰り返しの中で、

極力、変化を少なくし、刺激を少なくするようになっています。

その方が、考えなくてすみますし、無駄なエネルギーを使わないからですね。

現状維持をしようとしますし、

ルーティンの世界に生きます。

ある意味において、

変化のない毎日を求めています。

毎日刺激の連続、変化の連続であったら、

対応しきれないですから。

そうなってくると、

同じことの繰り返しで退屈になってきます。

飽きてきます。

その退屈から逃げるように、

仕事を入れたり、忙しくしたりして、

根底に横たわる退屈から目を背けようとします。

興味深いのは、

ミッションを定める

というのも退屈から逃れる1つの方法であり、

ある意味において危険性を伴うということです。

仕事の予定を入れて忙しくして、仕事の奴隷になるというのは想像しやすいかもしれません。

一方で、

ミッションを定めて、ミッションの奴隷になるということもあるというのです。


極端な事例をあげれば、

テロ組織などはミッションの世界に生きています。

自分の使命を果たそうとして、命を捧げます。

退屈な人の中には、

そのような「やることがある」「命をかけるものがある」ことを羨ましく思う気持ちがあるというのです。

なんのための人生なんだろうか、

自分はなんのために生まれてきたのだろうか、

自分の人生は価値あるものなのだろうか、

それらの悩みから逃れるようにミッションを定める時、

ミッションの奴隷になることがありえます。

そういう見方を提示された時、

なるほどなと思いました。

退屈な日常、変わりばえしない日々、

どこかでそのような平穏な日々を求めながら、

暇と自由には耐えられず、

仕事やミッションによって自分の人生から逃げ、

命を捧げるようになってしまう構造。

ミッションに生きる人は、

ミッション以外のことが遮断される傾向にあります。

それ以外のことは、

目に入らず、耳にも聞こえず、受け入れられず、世界が閉ざされていく傾向にあります。

仕事の奴隷にもならず、

ミッションの奴隷にもならず、

人生を人間らしく生きる力を育む。

そうなってくると、

ミッションというよりは、

やりがいや生きがいをもち、

日々の出来事や日常を感じながら生きるということにつながっていきますね。


ビジネスの世界において、
会社や個人のミッションを定めるというのはよくやることですし、
僕もどちらかというと推奨します。

ただ、
目標を追いかけるのではなく、目標に追いかけられるようになると機能しなくなるのと同じく、
ミッションが方向性や軸としてではなく、ミッションの奴隷になると機能しなくなるのですね。

なるほどなぁ、と思わされました。

根底にあるのは、

「何かを成し遂げないと価値がない」「何かできないと価値がない」という人間観でもあります。

そうではなく、

「何もできなくても、何も成し遂げなくても、かけがえのない存在」だという人間観へと転換すれば、
ミッションにとらわれることもなくなりますね。

そう考えてみると、
だいぶ自由で楽になることもあるかもしれません。


<まとめ>

■退屈から逃げるように、仕事の奴隷になったり、ミッションの奴隷になったりする。
退屈な日々においては、命をかけるものがある人がうらやましいという思いが芽生えやすい。

■ミッションがあることは、推進力を生む一方で、危険性を伴うこともある。
ミッションが人を盲目にするということもある。
ミッションに反するものを受け入れられなくなっていく傾向があるから。

■暇と自由を投げ捨て、仕事、組織、ミッションの奴隷になろうとする力は大きい。
自分が裸の人間として、何も持っていないただの自分をただただ承認するところから始まり、
何かできても、何かできなくても価値ある存在だと認識するあたりが出発点であろう。

コメント


認証コード6912

コメントは管理者の承認後に表示されます。