教育はスピリチュアリティの次元を取り戻した方がよいのだろうか

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最近興味を持って調べているホリスティック教育学で、おもしろいなぁと思ったことを紹介してみます。

中川吉晴『ホリスティック臨床教育学 教育・心理療法・スピリチュアリティ』せせらぎ出版、2005年
から引用しつつ考えてみますね。

まず、ホリスティック教育学とは何か、については、

”ホリスティック臨床教育学は、教育と心理療法とスピリチュアリティ(霊性)の三領域を統合しようとする試みであり、それによって臨床教育学のひとつのあり方を提起しようとするものである。”(p.15)

となります。

心理療法による人間の変容、

宗教による修行による人間の変容、

それらも含みながら、教育というものについて統合して考えようという視点があります。

教育におけるスピリチュアリティについては、慎重に議論をする必要があり、ともすれば避けられがちな傾向にありますが、改めて考えてみるとよいのかと思います。

40代前後で、だいたいこの教育におけるスピリチュアリティに興味を持つ人は持つらしくて、

うーん、僕もそうかなぁ、と思いながら、深入りすると戻ってこられない沼のようなものも感じますね(苦笑)

”「教育におけるスピリチュアリティ」の議論は、魂やスピリットの次元をふくんだ人間形成のあり方を重視している。

それを受けて言えば、臨床教育学は、それが身体や精神や心だけでなく、魂やスピリットといった霊性の次元にまでおよばないかぎり、全体的なものにはならない。

というのも、魂はそれをとおして人間の生きがいや存在意味が開示されてくる次元であり、スピリットは人間の究極的な根源と考えられるからである。

しかし今日の教育は、こうした深層次元をほとんど顧みることなく排除しており、逆に産業社会の科学主義的・物質主義的な価値観の影響を受け、人間を物質的で社会関係的な存在としてとらえる傾向がつい。”(p.22)

この問題提起に、僕も共感します。

魂(ソウル)や霊(スピリット)の次元を扱うことに関しては、ケン・ウィルバーの一連の著作を読んでなるほどなぁと思わされて、それ以降、探究を続けてきています。

感化、洗脳、教化、
盲目的にそれらにつながる恐れがあることに慎重になりつつ、それでもやっぱり「いのち」と向き合う時に、ホリスティック教育学が提示する視点は無視できないのではないか、です。

人間存在として全体を統合すること、
全人格を考えること、
その際に魂やスピリットとどう向き合ったらよいのか。

うさんくさいスピリチュアルな議論も世の中に溢れるために、ついつい遠ざけ、見なかったことにしたり、一蹴されたりする中で、どのように「教育におけるスピリチュアリティ」を考えたらよいのか、ホリスティック教育学が視座を与えてくれます。

マインドフルネスも注目されてきましたが、まだまだ議論の余地がある領域で面白いんですよね。

<まとめ>
■ホリスティック教育学やホリスティック臨床教育学は、教育、心理療法、スピリチュアリティの観点から、人間の全体性を考えている。

■教育におけるスピリチュアリティは、洗脳や感化の問題があるため慎重に扱われる必要がある。
一方で、魂やスピリットの次元を排除することに対する問題提起もなされている。

■スピリチュアリティに関しては、うさんくさい議論も多いので、ついつい遠ざけがちで議論しにくい現代社会ではあるけれども、思考停止に陥らずに検討してみることも必要なのではないか。

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