超えて含むという方向性
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ケン・ウィルバーが、進化の方向性として、”超えて含む”という概念を出したのは、秀逸だなと思います。
このレンズを持っていると、見えてくるものもたくさんあります。
プレパーソナルとトランスパーソナルを分けて考える、というのが、ケン・ウィルバーの考えです。
大人はもっと子どもに学べ、
子どもの自由さ、奔放さ、無垢さ、美しさ、純粋さをもっと学んだらどうか、
と言われることがあります。
子どもバンザイ!
大人は汚れてしまった存在だ、とでもいうかのようです。
これ、子どもに学べというのは適切だと思いますが、子どもが大人の上位にあって、大人が本来の人間性から一段落ちたと考えてしまうと、人間の発達とは何だろうと思ってしまいます。
子どもを崇高な存在、子どもを神聖な存在とみるのは違うのではないか。
だいぶ意訳していますが、プレの段階を神聖視するのではないということがポイントです。
昔はよかった系の議論も同様です。
PCやスマホが出る前は人間らしい生活があった、
明治維新の頃はよかった、
江戸時代はよかった、
いやいや、弥生時代や縄文時代は自然と共に暮らしていてよかった、
などなど、過去に学ぶのは大切なことは間違いありません。
しかし、かつてのどこかの時代や社会を神聖視するのは、危険が伴いますね。
どの時代にも、飢えや争い、病気、苦しみ、人権の問題、不便さがあり、それを超えようとする取り組みの上に、今の時代があります。
プレの良さは認識しつつも、それを絶対視・神聖視することはできないのです。
人間においては、プレパーソナルな段階から、パーソナルな段階へと発達していきます。
まだ自己が十分に育っておらず、我がままだったり、人を傷つけたり、責任を果たすことができない段階から、自己が確立して、社会での振る舞いや人間関係への対処を身につけ、仕事をするようになります。
ここにおいて、学校教育や家庭での教育が果たす役割は大きいです。
大人になるのですね。
この際に、子どもを超えて含んで大人になります。
子どもの中に大人はない。
けれども、大人の中には子どもがあります。
子どもだった自分を超えて含んで大人になっているのですから。
子どもの自分も統合した形で大人になります。
そして、そこからさらに、自己を手放す領域があります。
マズローの言う、自己実現のその先、自己超越ですね。
自分を超えて、もっとより大きなものの為に生きるという感覚でもあります。
悟りの境地などもそれです。
一旦自己を確立して、そこからさらに手放す、
これがトランスパーソナルな領域です。
型がないのが型なし、
型を身につけて、型を超えるのが、型破り、
というのと同様です。
型なしと型破りは次元が違うのです。
そのようにプレとトランスは同じように見えるのだけれど、次元が異なるということがあります。
そこにあるのが、超えて含むという考え方です。
マネージャーは、社員を超えて含む存在である必要があり、
経営者はマネージャーを超えて含む存在である必要があります。
そこに深さという次元が生まれてくるわけですが、それはまた別の機会にお伝えできたらと思います。
<まとめ>
■進化は、超えて含むという概念によって整理される。
■プレとトランスを混同してはならない。
昔はよかった、子どもは素晴らしい、そこから学ぶことはあるのだが、神聖視するのは違うのではないか。
■プレパーソナル、パーソナル、トランスパーソナルという流れでは、自己の未発達、自己の確立、自己を手放すという流れがあり、それぞれの段階はその前の段階を超えて含む形で進む。