教育学を教育するとは?

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教育学を教育するとは?

一見単純なこの問いに、簡単に答えるのはなかなか厄介です。
教育学を教えてください、と言われたら、まぁ、困ります。

そもそも、教育学とは何か?
そもそも、教育とは何か?
そして、学ぶというのはどういうことか?
を問わずに教育学は語りがたいものがあります。
(語る必要もないというのもありますけど)

どうして教えるのか?
何を教えるのか?
どのように教えるのか?
誰に教えるのか?
何をもって教育したと言えるのか?

学校の教師は「教育学」を学んでいないのではないか?
なんていう批判もありますが、うーん、そうとも言えるし、そうでないとも言えるしなぁ、というのが、僕の考えです。
そもそも教育学と思われるものも、どんどん更新されていき、概念自体も変わっていってしまうので、学んだと過去形で言い切ること自体が困難だと思います。
とするなら、問い続けるしかない。

もし、学生が教育学を教えてください、
と僕のところに来たとしたら、
いいよ、ところで教育ってなんだろうね?
からスタートすることが多くなると思います。

じゃぁ、教育学を哲学的アプローチで、ソクラテスメソッド(問答法)や対話(ダイアローグ)を用いて教育するのですね、と言われると、それはまた別の話で、そうとも言えるし、そうでないとも言える、となります。

この対話を受けた学生が、「教育学を教育できる」ようになるかというと、そこにはまたいろんな要素が働いてきますしね。
ただ僕が言えるのは、「学び続け、問い続け、実践し続ける」その営みのなかに教育学を教育する何かを見出しているということですね。教育するというからには実践の形を取らざるを得ず、教えるにせよ教えないにせよ、それは絶えず問われ続けるプロセスとして立ち現れるものだと捉えています。

実際には、教育学を教えてくださいという時の学習者の学習ニーズにそって展開しちゃうことが多いので、上のような哲学問答になることはほとんどないのですが、
教育学を教育するとは?
という問いの困難さについて思うこと、でした。

そう、そして、僕は教育学をわかっているかというと、教育学をわかっていないのであって、そもそもそれを教えられるのかということにいつも向き合わざるを得ないのですねぇ。

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