社会教育終焉論を含んで社会教育を考え続けること

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今日の社会教育計画の講義は、松下圭一の社会教育終焉論を扱いました。

松下圭一が『社会教育の終焉』を出したのが、1986年。
市民社会の成熟とともに、社会教育の役割は終わることを鋭く問題提起してから、すでに30年以上が経過しました。

社会教育行政の中心を担う公民館や専門職員についての批判を重ね、市民文化活動の必要性を主張したことに、説得力があります。

今日の世の中をみても、流れをみても、社会教育の役割というのはどんどん小さくなってきているのを感じます。
そして、人生100年時代の生涯学習が叫ばれるわけですね。

学生の反応としても、社会教育行政の終焉には納得するという意見が多く、なくなっても困らないという感じですね。

行政が社会教育を推進する必要があるのか、どこまで効果的なのか、公民館や社会教育施設には何が求められているのか、社会教育主事の役割とは何か、今日的な文脈で検討するには避けては通れないテーマです。

生涯学習時代において、行政がどこまで何を担うのかは、答えのない問題です。
個人が自由に学び、学習機会が広がっていって、行政が担う役割が小さくなっていくことは僕も賛成です。

一方で、行政の役割や専門職員を完全に無くしてしまうことには、簡単には賛成できないというのが僕の立場でもあります。

まぁ、そうでもなければ、社会教育計画という講義をしないんですけどね。

学びの自己責任、市場原理にすべてを委ねた学び、その発想にはどうしても限界があると思うのです。
そこから排除される人がでたり、抑圧される構造を転換できない可能性があるからです。

一方で、社会教育終焉論と社会の流れは無視できるものではありません。

社会教育という思想や取り組みがある種の矛盾を抱えていることは事実だと思うのですが、それでもその批判や矛盾を抱え込みながら、それを乗り越えていくことを問い続ける必要があるのではないでしょうかね。

人材育成や生涯学習の発想の中には、権力批判や社会批判の考えが弱く、欠けているものや見落としがちな視点がある以上、盲目的にならずに問い続けたいものです。

社会教育終焉論を含んで超えた社会教育というものを考え続けたいものです。

<まとめ>

■生涯学習や市民の文化活動が活発になり、自由な学びの機会が増えることで、社会教育行政が果たす役割は自然と小さくなる。

■社会教育行政や公民館、社会教育主事のあり方を批判した社会教育終焉論は、一定の説得力を持っており、社会教育に関わる者は、それを含んで考えないといけないだろう。

■公共の発想があるからできることもある。
人材育成や生涯学習のパースペクティブで抜けがちな視点を踏まえて、社会の中での学びを考え続けることが求められる。

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