國分功一郎『原子力時代における哲学』から、放下を考える

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1950年代、核実験や核開発が進む中で、
「原子力の平和利用」に関しては誰も警鐘を鳴らさなかった。

ハイデッガーを除いては。

誰もが「原子力の平和利用」や原子力発電に夢を見ていた時代にあって、どうしてあの哲学者、ハイデッガーは核戦争よりも「原子力の平和利用」の方が恐ろしいと看破することができたのか。

とても興味深い考察です。

「意志」の限界を考え抜くことができたからであり、
「考える」ことができたからであり、
それが「放下」へとつながっていく。

哲学の姿勢でもって、
そして西洋の影響を受けながら西洋を疑い、
「放下」へ到る道に思いを馳せるとき、
私たちがいかに原子力から逸らされているかを思います。
それは、原子力から逸らされているかと同時に、私たち自身からも逸らされていることも意味します。

いま、社会や技術の変化の中にあって、
「放下」や「アンキバシエー」について思わざるをえません。

よいものとされる技術が隠しているものに関して、
私たちが開かれているか、
という問いだからこそ見えてくるものがありますね。

”放下という落ち着きの態度で、期待するのではなくて待つことによって、我々は世界という会域に降りていくことができ、そこで事象そのものの謎=秘密を思惟することができる。そうしたプロセスがアンキバシエーであり、このアンキバシエーこそは、この会話が論じてきたものであると同時に、この会話の歩みそのものであった。"
(pp.245-246)

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