負けを認められたときに伸びる
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自分が正しいと思っているうちは、なかなか変容しないものです。
遡ること、大学5年生のときのことです。
大学を1年休学して、人材紹介会社の営業の仕事をしていた際、上司から、
「種村はさ、自分が正しいと思っているだろ」
と急に言われたことがあります。
「はぁ?なんですか、急に。そんなこと思っていませんよ」
「いや、思っているね。お前は自分が正しいと思っている」
「なんなんですか?思っていませんよ」
「ほらな。だから営業成績が上がらないんだよ」
という会話をしたのを妙に覚えています。
急にそんなことを言われて、イラッとしました。
そして、言われていることの意味が、当時はわからなかったんですね。
社会人になる前の話ですが、社会人になってからもなかなかこのことに気づくことができなくて、苦労しました。
自分の考えが正しいと思っているということに、自覚できないのです。
だって、自分の考えが正しいという思い込みやパラダイムがあるとは、自分では思っていないからですね。
人の考えは人の考え、
自分の考えは自分の考え、
両方尊重すべきだ、
という基本姿勢が僕にはありました。
そう、そして、まさにこれこそが若いときの自分の過ちだったのですね。
学ぶときには、自分の考え、こだわり、前提、価値観などを、捨てたり、置いておく必要があります。
まぁ、上の人からみたら、素直じゃなかったでしょうね。
上の立場の人からみたら、その前提や考えがあるから、うまくいかないし、結果が出ないのに、先輩の考えや価値観はそれはそれ、自分の考えや価値観はこう、自分はこう、とかやっちゃうんですからね。
そして、自分は考えてしっかりやっている、ちゃんとやっている、もっと認めてほしい、どうして他の同僚はかわいがられるのに自分はかわいがってもらえないのだろう、なんて思っていました。
ちゃんとやろう、
頑張ろう、
先輩の手を煩わせることなくやらなくちゃ、
という、そのしっかりさんを目指す姿勢だと、かわいがってもらえないのにですね(苦笑)
素直になるとはどういうことなのか、
かわいがってもらうとはどういうことなのか、
わかっていませんでした。
僕にとって、それは”負けを認める”というようなものでした。
あぁ、自分は仕事ができないんだ、
あぁ、相手とはりあうことではないんだ、
自分の考えや前提って間違っていたんだ、
と、降参するような感じでした。
学びの場において、素直になる、というのは、
負けを認める、降参する、軍門に降る、という感覚に近いものが自分の中にあります。
まぁ、どれだけ張り合っちゃているんだ、って感じですね。
素直さ、謙虚さが大事というのは、あたり前のことなのですが、それがどういう感覚なのかわかったときの感覚が、負けを認める感覚であり、今でも、自分の負けを認められたとき、自分は伸びるなぁ、という感覚があります。
みなさんはいかがでしょうか?
<まとめ>
■自分の正当化や前提には、なかなか気づきにくいものである。
■自分を正当化して、なんとか頑張っちゃっているうちは、素直さやかわいげがなく、かわいがってもらえない。
■"自分の負けを認める””自分の弱さを受け入れる”という感覚が生じたとき、本当の意味で、素直で謙虚になれた。そして、この状態にあるときには自分は伸びた。