教える勇気 ~教育者は不安なのである~

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P.J. パーマーは、教える勇気について述べていて、教育に関わる人であれば、

P.J. パーマー『大学教師の自己改善 教える勇気』玉川大学出版部、2000年

は読んでいただきたい1冊です。

教育者は不安や恐れを感じているものである。
それに気づいている場合もあれば、気づかないふりをしている場合もあるでしょう。

うまく教えられるだろうか、
相手は話を聞いてくれるだろうか、
相手からどう評価されるだろうか、
退屈させないだろうか、
不満を言われないだろうか、
自分が教えることは間違っていないだろうか、
自分なんかが教えてよいのだろうか、

などなど、教育者は不安や恐れを抱きやすいものです。

教育現場に限らず、教えるということは、相手と衝突するリスクもはらみます。
本当に相手のためになることは、相手にとって耳が痛いことである場合も少なくありません。

そう考えると、教えずに逃げるというか、相手と関わりを持たないようにする方が楽なケースも少なくありません。

何を言われるかわからない、
何をされるかわからない、
関わるのを避けよう。

地域の教育力が低下していると言われますが、地域や公共交通機関、お店などで、注意をしたり教えたりするように関わらない方が楽です。

単に相手の機嫌をとるだけ、関係性を悪化させないだけなら、見て見ぬ振りをしたり、流したりする方が楽です。

それと同様の不安を、実は教育者は抱えやすいものです。

しかしまぁ、授業をしないといけないという場合、不安や恐れの対処として教えない、関わらないというのがしづらいので、教師役割を演じることが多くなりがちです。

自分を正当化し、
相手より上に立ち、
相手の意見を抑え込み、
一方的に話し、
知識の伝授をする。

これが不安や恐れからの回避としての、教師役割になりやすいのですね。

武器を身につけ、鎧をまとい、本当の自分は出さず、教師役割としての仮面を被り、強がる。

これは、ごく自然の反応です。

そして、これはP.J.パーマーの言う、教える勇気ではないのです。

教える勇気とは、教育者が自分の弱さを出すことであり、
本当の自己、オーセンティックな自己を開示することにあると言います。

学習者の前で、弱い自分をさらけ出せるか、です。

これは怖いことではないでしょうか。

自分ができていないこと、
ダメな自分、
まだまだな自分、
自分の弱いところ、

そんなのを出したら、相手をつけ上がらせるだけではないかと思いますよね。
隙なんか見せない方がいいと考えるのが自然だと思います。

しかし、実際には逆だ、と。

教育者が仮面を被り、武装をして、教師役割を演じて接するとき、学習者も不安と恐れを抱くのだと言います。

間違えてはいけない、
バカにされてはいけない、
評価されているからしっかりしないといけない、

そうやって構えを作り、萎縮し、びくびくしながら学び、防衛反応を見せます。

教室の後ろに座ったり、顔は下を向いて表情を見られないようにしたり、指されないような態度をとったり、お前の話なんか聞かないよと斜めに構えたりします。

そして、この学習者の構えがまた、教師を構えさせます。

おもしろくないのか、
なんで聞かないのか、
もっとしっかり教えないといけないか、と。

不安と恐れから教育者と学習者が構えを作るとき、それはお互いがお互いを加速させます。

自分を正当化させることでも、
武装することでも、
しっかりとした教師になることでもなく、

弱い自分、生身の人間をさらけ出せるかどうか、そこに教える勇気があります。

教育者が構えを解くとき、そこに安心と安全な空間が生まれ、学習者もまた生身の人間として、本来の状態で学びます。
そこに関係性が生まれるのです。

鎧を脱いでもいられる自分を出せるかどうか、です。

教育者は、武器を身につけたり、武装したりして、そしてそれを超えて含んで手放して実践に臨むのですね。

<まとめ>

■教えるという行為には、不安がつきまとう。
特に教育という構造では、学習者からの評価や反応がとっても怖いのである。

■教えることの不安や恐れから、逃走したいという気持ちが生じるのは自然である。
そして、それは、自分を出さずに、教師役割を演じることで表現される。
武装し、自分を正当化し、相手より上に立ち、一方的に話すといったような。

■教育者が不安に負けて構えを作るとき、学習者もまた構えを作る。
教える勇気とは、教育者が本当の自分をさらけ出せるかどうかにある。
弱い自分、ありのままの自分を出すことである。

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