分人主義も分割と統合と

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(Photo by rawpixel.com on Unsplash)

今さらながら、
平野啓一郎の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
を読みました。

相手に合わせて自分も異なり、そのどれもが自分である。
individualの語源でもある、それ以上分割できないものを個人と捉えてしまうことで、分割できない本当の自分がどこかにあると思ってしまい、それが息苦しさにつながっていないかという問題意識は、そうだなと思っていました。

人と人の間に立ち現れてくるのが、人間、というものだと思っていたので、「個人」から「分人」へと概念を導入することで何が起こるのか、それほど自分の中でインパクトを感じていなくて、読むのが今頃になってしまいましたが、読んでよかったです。
いま読んだからよかったというのもありますね。

自我が一つである。
本当の自分がある。
自分は常に一貫していなければならない。

それが個人のもつ苦しさであるとします。

そして、
相手に合わせて自然と自分は変わる。
自分は分割可能である。
本当の自分というものはなく、たくさんの分人の集合に過ぎない。

それが分人という考え方を導入することで見えてくる地平です。

そこから特に興味深かったのは、5章の分断を超えての議論です。

”個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。”(p.164)

独立した個人を想定するのではなく、分人においては、相手との相互作用の中で自分の中に生じてくるものなので、必然的に相手とつながってしまいますね。

人間個人が分断されなくなる思想です。

”今日、コミュニティの問題で重要なのは、複数のコミュニティへの多重参加である。
そして、それを可能とするためには、分人という単位を導入するしかない。”(p.172)

”一人の人間が、まったく思想的立場の異なるコミュニティに参加しているとする。個人として考えるなら、それは矛盾であり、裏切りだ。首尾一貫しない、コウモリのような人間だと見なされるだろう。
しかし、分人の観点からは、これが可能となる。それぞれのコミュニティには、異なる分人で参加しているからだ。
そして、まったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ。”(p.172)

これがとても鮮やかで、今さらながらに、そうだなぁ、と思ったのでした。

世の中が分断されていき、どんなコミュニティに所属しているか、誰とつきあっているかで、得ている情報も見えている景色も変わってしまっています。

インターネットが普及して、SNSが発展してからその傾向は進んでいるように感じます。

しかし、その分断を超える視点として、1人の人間が複数のコミュニティに所属し、それぞれの分人を存在させ、そしてその1人の人間の中で様々な分人が影響し合うことによって分断を乗り越える視点を出していることに、すごく共感しました。

自分も教育関係のコミュニティ、司法に関するコミュニティ、医学に関するコミュニティ、経営に関するコミュニティなど、複数のコミュニティに関わっていますが、それぞれの思想や考えの違いが顕著で、特にビジネス系のコミュニティとアカデミック系のコミュニティでは、思想が対立することや分断することがあります。

でも自分の中ではゆるやかに橋渡し可能な部分もあるのですね。

分断を乗り越える思想として、他人と分割可能な独立した個人ではなく、他人と分割不可能で1人の人間の中では分割可能な分人を導入し、さらにそれを1人の人間の中で分人を超えて含む発想を持つことで全人格を想定することもまた可能なのではないかと思えました。

単に人と人の間に現れるのが人間であるという捉え方より、奥行きや応用範囲が広く、分割と統合をめぐる思想の部分に特にインスパイアされました。

<まとめ>
■individualの語源には、分割できないというものがあり、個人はそれ以上分割できないものという思想がある。
■本来は、人間は人との関係性によって現れてくる自分はそれぞれ異なるものであり、そのどれもが自分である。個人よりも分割可能なより小さい単位を導入することができる。つまり、分人(dividual)という考え方を用いると本当の自分や自分らしさに悩まされることもない。どの分人も自分なのだから。
■分断された社会をつなぐ可能性として、1人の人間が様々なコミュニティに所属することで、それぞれのコミュニティごとの分人を育て、その分人が1人の人間の中で影響し合うようにすることが考えられる。

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